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PINGブランドを代表するアイテムである、「ANSER」パター。それは、創業者のカーステン・ソルハイムが「すべてのゴルファーの悩みの答えになる」という想いのもと名付けたものでした。
『PING ANSER』は、その道を極めたプロフェッショナルとキャリアを振り返り、たどり着いた「私のアンサー」を探していく連載です。
第2回のゲストは、世界年間最優秀選手に贈られる、サッカー選手にとって最大の名誉といってもいい「バロンドール」をアジア人としてはじめて獲得した澤穂希さんです。
描いていたキャプテン像が心地よく覆された。
「そういうの、まったくなくて」
澤穂希がさらりと言う。
2011年7月17日、ドイツ・フランクフルトで日本女子サッカー界の歴史が大きく書き換えられた。サッカー女子W杯の決勝において、日本はPK戦の末に絶対王者であるアメリカに勝利し、世界の頂に立った。
日本代表の真ん中にいたのは日本女子サッカー界の歴史そのものといっていい32歳の澤である。
しかし、澤は最後のPK戦には参加していない。2-2の同点のままPK戦に突入することが決まったとき、監督の佐々木則夫は4番手として澤を指名する予定だった。しかし、澤はみんなの前でこう言って断ったのだという。
「私、蹴りたくないです」
佐々木もそれをあっさりと受け止めた。
「そうか。今、澤は大仕事をやってくれたからな。じゃあ、他の得意なやつにいってもらうか」
大仕事という言葉では足りない。まさに起死回生の同点シュートだった。延長後半12分、澤は宮間あやの左からのコーナーキックを右のアウトで合わせるという、神業と表現してもいい芸術的なシュートを決めたばかりだったのだ。
とはいえ、澤ほどの選手になったら、嘘でも私が蹴りますと言わなきゃいけないし、たとえ振りであってもそういうポーズをとっていなければいけないものだと思っていた。こちらが勝手に抱いていた固定観念に対する返答が、冒頭のひと言だった。
澤の心棒は強いだけでなく、しなやかだった。澤はこう続ける。
「苦手なところを苦手って言えるのも強さの1つかなと思っていて。みんな得意不得意はあるものだから、できないことをできないって言うのが恥ずかしいとかもないんです。本当にPK、苦手なんで。完全にメンタル勝負じゃないですか。だから、『お願い!』って言っちゃう。ライバル意識とか、若いときはあってもいいのよ。負けたくない、って。それがないと成長できないし。でも、20代後半ぐらいかな、逆に、他の選手を「すごいな」ってリスペクトできるようになった。キックの質は宮間の方が全然上だし。互いの足りないものを補い合った方がチームにとっては絶対、いいじゃないですか」
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もちろん、最初からそう達観していたわけではない。澤が日本代表に初めて選ばれたのは1993年、15歳のときだった。
「サッカーが好きだし、もっとうまくなりたいという、それだけでしたね。まだ、チームのことなんて考える余裕なんてなかった」
ただ、必死に目の前のボールを追っていた。そんな矢先、情勢が一変する。日本女子サッカー界は1990年代後半から2000年代初頭にかけて、冬の時代を迎えることになる。女子サッカーは1996年のアトランタ五輪で初の正式種目となったものの、日本代表が2000年のシドニー五輪の出場権を逃すとスポンサー企業の撤退が相次いだ。
澤が所属していた読売ベレーザもチームを縮小することになり、プロ契約を打ち切られる。周囲の熱は見る間に冷め、観客席には親族や友人しかいない試合も珍しくなかった。
無邪気にボールを追う季節は終わった。1人のサッカー少女から、1人の大人のアスリートへ。自立のときだった。
「ここにいてもダメだ、って。チームもそうなんだけど、まずは自分が強くならなきゃ日本代表も強くならない。そう思って、アメリカに渡る覚悟を決めたんです」
また、20歳のとき、日本代表でも心境の変化が訪れる。当時のキャプテンが故障で離脱し、澤にキャプテンマークが託されたのだ。
「あんなにちっちゃいバンドなのに腕に巻くだけでこんなに重いものなんだ、って。初めて、自分がやらなきゃ、結果を出さなきゃ、と思った瞬間でしたね」
日の丸を背負うという覚悟が、その腕に宿った。
しかし、責任が大きくなればなるほど、立ちはだかる壁も高く、険しいものになっていく。
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2004年春、日本女子サッカー界の存亡がかかっていたといっても過言ではないアテネ五輪の予選中に澤は半月板を損傷してしまう。予選終了後、本戦に間に合うよう緊急手術を敢行。過酷なリハビリを経て、夏の本戦では奇跡の復活を遂げた。
「それまで走って吐くなんてことはなかったんですけど、追い込み過ぎて、吐いてしまったことがあって。もう無理ですって言ったら、トレーナーに笑顔で『いいよ、やめて。オリンピック行きたくないんだね』と。その言葉で火が着いたこともありましたね」
限界を突破するたびに澤の視界はより高く、より遠くへと開けていった。
「壁にぶつかったからといって、簡単に諦めちゃう人は上に行けないのかなとは思いますね。壁を乗り越えることで、心も体も一回りも二回りもパワーアップする。目に見える成果が表れないと諦めがちですけど、ダメだって思ったとき、どこまで踏ん張れるかで選手としての差が付いてくるのかなという気はします」
そうして駆け抜けた20代の先には、見たことのない景色が待っていた。
「30を過ぎて、やっと『サッカーがわかった』と思えたんです。経験を重ねたことでそれまで見えなかったコースが見えて、こんなパスが出せるんだっていう発見があったり。自分のプレーの幅が広がったお陰で、毎日練習に行くのが本当に楽しかった。キャプテンだからといって、自分が全部背負わなきゃというのもなくなりましたね。チームのメンバーってパズルと同じで、1つとして同じものはないと思うんです。でも、だからこそ意味があるわけで。逆に同じタイプの選手が何人もいたら、たぶん、ワールドカップも勝てていなかったと思います」
澤がたどり着いたサッカー選手としての境地。それが鮮やかに結実したのが2011年のワールドカップだったのだ。
澤が初めてボールを蹴ったのは6歳のときだった。兄が入っているサッカーチームの練習を見に行き、そこでコーチに促され、澤は持っていたゴム製の大きなボールをゴールに向かって蹴った。つま先で捉えたボールはきれいに芯を食い、まっすぐゴールに吸い込まれていった。
「あのときの感触、今も覚えてるんですよ。あのとき、もしゴールを外していたらサッカーをやっていなかったかもしれませんね」
その瞬間から始まった澤のサッカー人生は37歳のときに終わりを迎えた。
澤は今、サッカー教室等のイベントでボールに触ることはあっても、試合形式の中でボールを蹴ることは一切ないという。エキシビションゲームなどへの出場依頼が舞い込むことがあるが、それらはすべて断っている。
「サッカーはやり切ったという思いがあるので、やりたいっていう気持ちがまったくないんです。1パーセントも」
澤の、まっすぐに貫かれた30年。その答えだった。

1978年9月6日生まれ、東京都出身。6歳でサッカーを始め、中学時代に読売クラブ女子メニーナに加入した。1995年のスウェーデン大会を皮切りに、6大会連続でFIFA女子ワールドカップに出場。史上最多記録としてギネス世界記録に認定されている。2011年ドイツ大会では優勝を果たし、大会MVPと得点王、そしてFIFA女子年間最優秀選手をアジア人として初めて受賞。2015年12月、現役生活に幕を下ろした。
Photo:Shunichi Oda
Styling:Kosuke Nemoto
Hair&Make-up:RYO
Text:Kei Nakamura
Edit:Dai Iwaya
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